死刑存置派と廃止派の発言が全く噛み合わない。なぜここまで意見が分かれるのかを陰陽論を使って考えてみる。
命とは、失えば元には絶対に戻らない存在で、その究極に大切な命を奪う事件を起点にして発生する反作用が究極の罰則である死刑という形となって現れる。これが存置派の発生原因です。
これは殺人事件そのものに無意識で注目することによって起こる反作用で、本能で感じる部分が強い人に多い。体を張って毎日がんばっている庶民が大半を占める感覚だ。被害者の立場を代弁したり、遺族感情を中心に話を進めるのが、その証拠です。
次に死刑廃止派の場合は、無意識に死刑という行為が思考の中心となり、死刑発生の根本原因となる事件はあまり頭に入ってこない、それは何故なのか?
残酷な殺人事件を冒した人間は、マトモな教育もされていない未完成な存在であり、野獣と同じであると考える。子供は生まれてくる環境を選ぶことができない、それが不運な方向へ流れて悪質な事件を起こしても、それはある意味、自分で選ぶことの出来ない自然の流れの中で起こる出来事で、交通事故と同じような側面があると考える。
被害者や遺族の話がなかなか出てこないのが、その証拠です。
逆に死刑というのは、国を管理する立場にある頭の正常なはずの人間が、究極の存在である命を奪う行為だと考えるので、死刑という国家による殺人を無意識に重要視する。この人達を良く言えば深く考える事が得意で、悪く言えば頭でっかちであると言われる部類だ。
つまり死刑存置も廃止も、究極の存在である命の大切さを訴えているにも関わらず、注目している部分が全くの逆方向であるために、お互いの意見が平行線のままだといえる。
しかも注目する点が無意識であることから、平行線の原因を捕らえることができずに、極端に存置か廃止に偏っている人達は、お互いを頭のおかしい連中ということで片付けてしまう結果を生み出す。
これは本能で感じる部分の多い少ないで決定される。死刑廃止派は体よりも頭先行で仕事をする人達が多く、私情を挟まない能力、すなわち本能で感じる部分が抑制されている状態だと考える。
ある作用が起これば、バランスを取る為に相殺させる反作用が起こる。それは生命及び生命の創造物・行動を常に安定させる作用が存在することを意味する。それが陰と陽です。
もし廃止論者という反作用がいなければ、死刑について考える機会がなくなり、簡単に死刑が執行されるでしょう。そうならないよう適度なブレーキをかけるために廃止論者がいるのです。つまり廃止論者を説得しようという行為などが、より冤罪のない秩序の保てる罰則への理解を深めていく事につながる訳です。
現時点の罰則制度がもし大きく間違っていたら、大きな反動を伴って修正されるだろう。当分変化がなければ、今はこのやり方で生命の秩序を保てるベストな状態を示す。つまり今が正しいのかは、後になって見なければ分からないとも言えます。
個人の意識ではなく大勢の意識が関わる行動や精神には、自由意志というものがほとんど存在しないと感じます。そこに偶然はなく、生命が地球に生存し続けるための、最も良い割合をほぼ自動的に取りながら進み続けるのです。
ちなみに廃止論者は、世界の潮流は死刑廃止に向かっていると言います。確かに私も他国に住んでいたら、何も考えずに大声で死刑存置を訴える事は出来ないでしょう。
その理由ですが、日本以外は冤罪が多そうだからです。汚職も多いでしょうし、のんきにしていれば何時犯罪者にしたてられるかもしれません。捜査能力もずさんだと思います。明日はわが身なんて感覚になるでしょうね。
以上、勝手な想像でした。
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